2020年1月16日に日本国内において、中国の武漢への渡航歴があった30代の男性が新型コロナウイルスの1例目にあたる陽性者となり、3年以上の歳月が流れました。
2023年5月8日現在、依然このウイルスに罹患する陽性者はいるものの、一つの節目ともいえる感染症法の分類における位置付けが、『2類』から季節性インフルエンザと同様の分類に相当する『5類』へと変更されました。
2023年5月5日にはWHO(世界保健機関)からの緊急事態宣言を解除する声明も発表されています。
完全な終息を迎えたわけではありませんが、建前としての日常は戻ったということになりそうです。
これを機に備忘録として、この3年間で感じた様々な思いを記事にしておこうと思い立った次第です。
私PATA個人の考え方によるものなので、ムキにならずにお付き合いくだされば幸いでございます。
様々な正義が交錯する世界
世界中の誰もがこの得体の知れない未知のウイルスに遭遇することになったわけですが、結局のところ3年経過した今もなお、わからない部分が多くある印象です。
科学の進歩や発達によって、宇宙が身近になっていたり、目に見えるわけでもない摩訶不思議なWi-Fiなんてものがあったりするのにも拘らず、この未知なるウイルスを消し飛ばす術や特効薬を作れずにいる状態です。
反面、普及したインターネットにより様々な情報は個人レベルであっても相当な範囲まで網羅することができるようになりました。
色々な角度から多角的に情報を集めることも、偏った情報だけを拾い続けることも。
そんな結果、無数の人が好き勝手な立場で好き勝手に情報を発信し、根拠なき陰謀論から謎のエビデンスまで多岐に渡る有象無象が乱立する事態へとなっていくわけです。
ここで厄介なことの一つとして考えられることは『自分軸』と『他人軸』の差にあるように感じます。
『マスク』について
毎年、花粉症の季節になるとマスクをしている人を見かける程度だったものが、こんなにも自分がマスクをつけて生活をすることになるとは、当然思ってもみない出来事でした。
つけてみて思ったことは本当にただただひたすらに『うざったい』。
元来、鼻が悪いらしくただでさえ詰まっていて苦しいものがもっと苦しい。
長時間の装着で判明した耳の痛さにもげんなり。
そんな私PATAではありますが、2023年5月8日現在、今もなお人と接する場面では装着しています。
理由としては、大した意味もないんだろうけど『人様に迷惑をかけたら困る』の一点のみです。
自分自身が気を使っていても、周りにいる人自身がイケイケどんどんタイプなら勝手に貰ってくるかもしれません。
なので、独りよがりと言えば独りよがりになることも重々承知の上でのマイルールのような感じです。
と、ここまでは、私PATAのお話。
世の中に目を向けてみると、『マスク警察』や『反マスク』といった様々な人間がコロナ禍をきっかけに登場して参りました。
ポイントはどちらもアプローチこそ違えど『正義』を振りかざしていることにあります。
『マスク警察』側の言い分としては、「自分も我慢しているんだからあなたも我慢しなさい」、「人様に万が一があったらどうするんだ」、「みんなしているんだからあなたもしなさい」、「高齢者や基礎疾患のある人のためにつけよう」といった感じでしょうか。
いっぽうの『反マスク』側は、「効果はないからつけない」、「不衛生だからかえって毒だ」、「自分は大丈夫だからつけない」、「単純に嫌だ」、「子供が可哀想だ」みたいな感じでしょうか。
こうやって見た時に思うこととしては、どちらの言い分も『わかる』んですね。
その中で、互いの正義をぶんぶん振り回すのか、自分で静かに判断するかの差でしかないように思うわけです。
世の中の大多数の人は自らが思う正義に則って判断した形をとっているはずなわけで。
宗教戦争が今も続くように、一方がもう一方を押さえつけようとした瞬間に争いが起こりそこには怨念めいた狂気が渦巻くことになっていくんだと。
飛行機にノーマスクで乗車して遅延させた人なんかもいましたが、そこまでして貫きたい正義なんでしょうか?
実刑判決にはならないかもしれませんが、航空会社への損害賠償やその際に同乗していた関係のない人へまで迷惑をかけてまで貫きたいことだったのでしょうか?
他者との接点なしで生活することはできないので、嫌かもしれませんが別の何かを考える配慮や妥協は少なからず必要と言わざるを得ません。
仮にそれが通るのなら、法律や秩序もあったもんじゃないわけで。
もっと言えば、『たった数時間程度の我慢による苦痛』と『数日間にわたって拘束され、その後の数年間貼られるであろう面倒臭い人としてのレッテル』、どちらの天秤が下に傾くかは火を見るよりも明らかです。
他にも、まるでバイキンかのように首都圏から来た人への心無い誹謗中傷や他府県ナンバー狩りを繰り返し行った地方の老人なんかもいましたかね。
全くもって理解できない世界の話ではありますが、これらも本来持っていたその人の本質がコロナ禍によって強く表面上へと浮かび上がってきたわけです。
『ワクチン』について
大前提として思うことは、良いも悪いも結果論なだけってことを強く感じています。
ワクチンを何度打っても問題ない人がいる一方で、残念ながら重篤な後遺症やお亡くなりになってしまう方がいるのも現実。
そもそも、医者によっても意見が分かれている始末です。
ワクチンを打ったことによって助かったって人を見付けることは物理的に不可能なわけですが、ワクチンを打ったことによって後遺症が出た方やお亡くなりになった方を見付けることは容易いわけです。
良い例えではないかもしれませんが『お守り』に近い感覚です。
『お守り』を買った直後に交通事故にあうかもしれません。
不幸中の幸いとして助かれば『お守り』のご利益、万が一亡くなってしまった場合は『お守り』を買ったから死んだんだ!とはなりませんよね?
しかしながら『ワクチン』と『お守り』は当然イコールではないことも承知です。
そんな『ワクチン』を断固打たない派に聞いてみたいことがあります。
あなたは「煙草を吸いませんか?お酒を飲みませんか?」と。
大好きなインターネットを駆使して調べてみればわかりますが、『酒は百薬の長』などと昔は言ったものですが、今の研究結果では『1滴も飲まないに越したことはない』というのが通説のようです。
煙草は言わずもがなただの毒です。
どちらもやらない人は、保存料が一切入っていない食べ物や無農薬野菜をしっかり食べ、かつ、適度に身体を動かした聖人君子のような生活をされていらっしゃるのでしょうか?
私PATAはどちらかの肩を持つといったことが言いたいわけではなく、それぐらい『穴だらけの正義』だよということを伝えたいわけなんです。
物凄く狭窄された考え方だなーと。
思う分には「どうぞご自由に」レベルの話なんですが、何かにつけて押しつけがましい部分が目に余るのでどうもこっちもムキになってしまいがちです。
思想の強い古くからの友人に、
「コロナなんてそもそもないからワクチンは絶対に打つなよ。ちなみに癌もないよ。」
更に彼は、たまたま心筋梗塞で死んだ友人の話になると、
「ワクチン打ってたの?あぁーワクチンだわそれ。」と。
全くもって悪気はないのでしょうが、何とも言えない悲しい気持ちになったのは言うまでもありません。
その彼は東北で地震が起きた際にも「原発からの放射能が~」と沖縄や海外へ逃げていたのですが、大麻を筆頭にLSDやMDMAを好む根っからのジャンキー。
北島康介ではありませんが「なんも言えねぇ」です。
『学生』について
私PATAはと言えば、猫もびっくりの独身まっしぐらなため我が子はいないのですが、自分自身の学生時代があまりにも楽しかったせいもあり、この3年間の学生を思うと気の毒でたまりませんでした。
入学式、卒業式、修学旅行、運動会、文化祭、部活動とどこを切り取ってもかけがえのない青春。
そこを制約される苦痛と言ったら筆舌に尽くしがたい思いで仕方がありません。
会社員として働く3年間と学生時代の3年間は、同じ時間経過ではありますが濃度が異なるのはみなさんもご承知の通りなわけでして。
本人たちが「そんなもんだ!」と思えていれば、実際には比べようもないので勝手に可哀想だと思い過ぎているだけかもしれませんが…
また、学校自体が休校になったことにより、自宅で過ごすことになった毒親を持つ子たちも辛かっただろうなと。
私PATA自身、劣悪な家庭環境で育ったこともあり唯一の逃げ場が『学校』。
夏休みや年末年始のような大型連休が嫌で嫌でしょうがなかったのを思いだします。
そんな子たちが「家で上手く過ごせているのだろうか?」と、何をしてあげられるわけじゃないのにソワソワしてみたり。
反対に学校へ行くことが苦痛だった子たちは、「しばしのエスケイプでホッとできたのかな?」とかも考えてみたりして。
高校野球で注目された仙台育英高校の須江監督が言っていた「青春って密」の言葉にもグッとくるものがありましたね。
『補助金』について
コロナ禍が始まり『飲食店』や『観光』に付随する業界がことごとく大ダメージを被りました。
誰が悪いわけでもないので、やり場のない怒りや絶望にさいなまれる日々を過ごされたことでしょう。
国の援助方針も曖昧なもので、パキッとしたルールも弱く傍から見ていても苛立つ始末です。
しかし、今となってはこの補助金によってバブル的な恩恵を受けた人たちも多く存在し、『クレクレくん』や『ごね得』が横行したのも事実。
真面目に堅実にやっている人の中には馬鹿を見た人たちも。
貰った人が『悪』で貰っていない人が『善』ではありませんが、コロナ禍に陥ってなくても窮地に追いやられた飲食店や旅行代理店も間違いなくあったでしょうし、蓄えもなくその日暮らしで商売をやっていた人にも、少なからずの疑問は残ります。
踏ん張った分だけ傷口を広げた人たちも、経営者の素質がなかっただけなのかもしれません。
みんながみんなではないにしろ、コロナ流行の波が来るたびにテレビへ出ては『苦しさばかりをアピールする人』への違和感を感じざるをえませんでした。
飲食店で言えば、いち早くテイクアウトやデリバリーに対応したり、立て直しをはかるべく速やかな撤退を選択された人たちもいたはずです。
B to Cのような営業スタイルのサラリーマンにとっては死活問題でしかなかったはずなのに、一切の援助や恩恵を受けることはありませんでした。
会社は通常通りのままで休みや勤務時間も同じ、でも成果は出せずに給料は減るいっぽう。
「この差は一体何なんだ?」と思わざるをえません。
ただただ大変なのと、満足の行くレベルではないものの補助がでるのとでは、精神衛生上全く心持ちが違ってくるはずです。
ここでもやはり、『自分軸』なのか『他人軸』なのかで物事を捉えてみると立ち回り方は変わっていたのではないでしょうか。
『医療従事者』について
引き続き今現在も最前線で頑張って下さる『医療従事者』のみなさんには頭が下がる思いです。
本当にありがとうございます。
しかし、現場とは異なるところで高みの見物とばかりに利権にまみれた守銭奴たちが多くいたことも事実。
仕事として行う以上ボランティアでする必要はないですし、貰うべき対価はリスクに見合ったものでなくてはなりません。
もっと言うとリスク禍にさらされている現場の人にこそキチンとした『報酬』を渡してあげるべきだと思います。
どこもかしこも人材が不足している現状を見れば、残念ながらこの報酬と業務の過酷さが釣り合っていないのは明白です。
やはり、頑張ってくれている人たちを絶望させてしまうような環境はどうにかしないといけないのではないでしょうか。
コロナ禍で開催された『東京オリンピック』も同じです。
生涯をかけて日々過酷な練習に打ち込む選手たちをピエロに祀り上げて、利権をむさぼる醜い政治家や権力者にも虫唾が走ります。
オリンピック以外のピュアなスポーツの祭典を新たに想像する時期にきているような気がしてなりません。
「一度オリンピックに憧れることから遠ざかってみても良いのでは?」とさえ思ってしまいます。
まとめ
とりとめもなく思いつくままにバーッと書き殴ってしまいましたが、本当になんともいえない3年間だったと感じています。
長い付き合いのある身近な人でさえも「こんな人だったんだ!」と、良くも悪くも驚くような経験が何度もあり、いかにその人の持つ秘めた本質が表面上に現れたかを見ることができました。
これからも同様のことが起こるのか、生きている間には起こらないのかわかりませんが、大事にしていきたいことは『強要をしない事』と『他人に期待し過ぎない事』かなと。
期待するからイラつくし、思い通りにできないからイラつく。
車の運転と同じですね。
「なんで?」の連続でずーっとイライラを繰り返してしまうので、「そんなもんだよね!」の精神で心穏やかに過ごしていきたいと思います。
それでは、みなさまの健やかなる未来をご祈念し終了とさせていただきます。
最後までお付き合いありがとうございました!!
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